− 笠岡中華そば紀行 −
私の記憶の中にはっきりと「中華そば」が現れるのは、幾つぐらいのことだ
ろうか。学齢期以前の事だと思うので、時代はまだ昭和40年代前後だろう。
僅かばかりの小遣いを親にねだり、近所の友人達と一緒に「斉藤」(閉店)へ
出掛けていたのが最初のような気がする。他にも食堂や中華料理店も有ったは
ずなのだが、どういうわけか「中華そば」は必ず「斉藤」に出掛けていた。そ
んな年端の行かぬ子供にさえ「中華そば」なら「斉藤」と思わせるほど、笠岡
市民に人気があったのだろう。
そんな当時、世の中は高度経済成長が始まりやっと自動車が普及し始め、そ
の為のインフラ整備が始まろうとしていた頃である。しかし、岡山県西部外れ
に在る笠岡はその恩恵に授かるまだまだ先の話で、国道2号線はともかく県道
笠岡井原線は現在のように拡張されていないばかりか、未舗装でちょっと広い
路地の様な道路であった。町並みも現在では駅前の区画整理完成間近で随分と
すっきりとしてしまっているが、当時は無数の路地が張り巡らされることで造
られており、食事時には各家庭からおかずの匂いが辺り一面に立ちこめるよう
で、どこか一軒が火事を出すとその一角の地域が確実に焼失するであろうと乱
雑さであった。
しかし、その町の乱雑さとは別に結構賑やかな町でもあった。僅かな人口の
割には人々の生活を満たす「スサキ通り」「本町通り」という商店街が2通り
もあり、大仙院という寺の「市」が立つ日には、これらの通りは歩くのも困難
なほどの人出であった。その賑やかさは笠岡に映画館が5軒もあったと知れば
分かり易いだろう。人口では笠岡を遙かに上回る福山市、倉敷市と比較しても
この数は劣るものではなかったはずである。(「斉藤」は洋画専門の映画館の
向かい、「坂本」は東映系の映画館の向かいに在った。)
そしてこの活気こそが、倉敷の「第二又一」に代表される濁ったスープの豚
骨鶏ガラ醤油、福山(尾道)の「朱華園」に代表される平麺を用い、豚骨鶏ガ
ラを合わせた透明なスープに背脂を浮かべるというラーメンの流入を防ぎ、
「斉藤」をベースとした鶏ガラのみの澄んだあっさり味の中華そばを育んだの
ではないかと思う。一時笠岡にも外部からのチェーン店が何度か進出したこと
もあるが、姿を消すのにはさほど時間は掛からなかった。
そんな笠岡の中に在りながらも、中華そばは確実に時代に沿って独自の進化 をしていった。「斉藤」とは若干味が違うが同じく「かしわ」を使用する「坂 本」「一久」「ふじさわ」が第2世代なら、鶏ガラのあっさり味ながら焼豚を 使用する「仕田原」「スター」は第3世代、平麺を使用し一見尾道ラーメンの ように見えるが鶏ガラのみで背脂も浮かばせないあっさり味の「大連」、既に閉店してしまったが鶏ガラ豚骨をベースに強力なほどいりこ味をさせた「あじよし」が第4世代と言えるのではないかと思う。そして最新世代として、鶏ガラだけとは思えないほどの濃厚な濁ったスープで、その評価を着実に上げている「東北」の登場となる。
昔の賑わいを失い、人口も6万程度で福山倉敷のベッドタウン化してしまっ
ている現在の笠岡ではあるが、これらの中華そば専門店6店が競合して切磋琢
磨していること、またそれを市民が支持して根付いていること事で、岡山県下
はおろか福山近郊でも見ることの出来ない笠岡独特の「中華そば文化」が形成
され、維持されているのではないかと思う。
残念なのは最後まで「斉藤」自身のルーツが辿れなかったことである。豚、
牛と違い、食肉流通関連法規が比較的緩い鶏は、その昔、笠岡に限らず色々土
地で多くの「かしわ屋」(産卵を終えた雌の古鶏が中心)を通じて、庶民の生
活に浸透していた。それ故に比較的安価で大量に入手し易い鶏ガラがスープの
ベースに、焼豚の代わりに煮鶏が選択されたと推測されるが、味付けとなると
どういう経路なのかさっぱり分からない。以前、とある番組の取材に協力した
際、既に隠居をされている「斉藤」の女将の所に出掛けたことがあるが、その
女将も味付けや作り方は先代の女将から譲り受けたもので、先代の女将亡き今
となっては分からないと言うことである。まあ、無理にこじつけたり暴き立て
たりするよりは、笠岡中華そばの隠し味として残しておく方が良いのかも知れ
ない。